スバル車の歴史と歩み

スバル車の歴史と歩み

スバル車の歴史と歩み

日本の重工業メーカーとして「富士重工業株式会社」を前身とする現SUBARU株式会社(以下スバル)ですが、その歴史を辿ると航空機メーカーとして設立された1917年にまで遡ります。
活躍の舞台を空から地上へと移し、現在に至るまで独自の技術を磨き上げてきたスバル。
目指すのは「安心と愉しさ」を届けるナンバーワンブランドになることで、人々の命を預かる機械メーカーとして、創立から現在までその目標は変わりません。
スバルの革新の歴史に注目をしつつ、クルマづくりへのこだわりと近年における動向、レースへの挑戦とその先にある未来に迫りたいと思います。

■航空機メーカーとしての戦前・戦後の歩み方

前身となる会社「飛行機研究所」が元海軍機関大尉である中島知久平氏によって、現在の群馬県太田市に設立されたのは1917年のことでした。
後に日本飛行機製作所、中島飛行機製作所とその名を変え、1931年に中島飛行機株式会社となりました。
太平洋戦争に敗戦するまでの陸海軍の需要に応え、航空用エンジンや軍用機の開発を主とした事業を展開させていました。
当事は民間機、軍用機合わせて2万5935機の航空機と4万6726機の発動機を製造しており、中島飛行機は日本最大規模の航空機メーカーとしてその名を轟かせました。
そして終戦を機に社名を新たに「富士産業」と改称し、1945年に新たなスタートを切ることとなりました。
軍需産業から非軍需産業に転換するのは、富士産業にとって決して生易しいものではありませんでした。
航空機の一切の製造や研究が禁止されていたため、自転車やリヤカーの製造・修理業、家庭用の台所用品の製造など、広域に渡ってあらゆる製造業に携わりました。
そんな中、困難を強いられていた富士産業に一筋の光明が差すこととなります。
当事の技術者たちは、進駐軍の兵士が移動に利用していたアメリカ製のスクーター「パウエル」に着目すると、民間の移動手動としての販路を見出します。
陸軍爆撃機として残っていた「銀河」の部品を代用し、早速試作品を完成させ、1947年に「ラビットスクーター」として販売するに至りました。
「ラビットスクーター」はその扱いやすさや利便性の良さで瞬く間に人気商品となり、戦後富士産業を支える重要な役割を担うこととなったのです。
ちなみにこのラビットシリーズは数度のモデルチェンジを繰り返した後、後の富士重工業となった1968年まで販売されています。
また、バスボディ架装にも事業を拡大した富士産業は、1946年に「ボンネットバス」よりも床面積を多く取れるキャブオーバー型のバス架装に着目し、
バス会社から絶大な支持を集めました。また、さらに3年後の1949年には、日本発のモノコックボディ「ふじ号」を完成させるなど、
軍需産業から非軍需産業へと、時代の流れに沿いながらシフトを大きく変更することとなるのです。
しかしGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)による財閥解体が進められ、富士産業もその対象として挙げられることとなり、
1950年に工場毎にさらに15社に分割されることになったのです。
しかしその年に起きた朝鮮戦争がGHQの日本占拠の状況を一変させ、解体となった各工場に次第に再合同の動きが見られるようになりました。
現・防衛省の予算に練習機調達予算が計上されたことも相まって、航空機産業再開に向けての動きが活発化していくこととなります。
それを持って1953年、航空機を製造を主な事業とする新会社「富士重工業株式会社」が設立されることとなりました。

■自動車メーカーとして本格始動!

航空機の再生産を行う一方、既に新たな商材として自動車を視野に入れていた富士重工業は、1954年に試作品スバル・1500を製造し、
日本初のフル・モノコック機構乗用車を完成させています。
そして自動車メーカー・富士重工業としての名を轟かせるに至ったのが1958年に開発された「スバル・360」です。
大衆車両の生産計画である「国民車構想」の水準に近いものを具現化し、「大人4人が乗れて、小型車に引けを取らない性能の軽自動車」として、
日本人にとって自動車をさらに身近な物になるよう変化させたのです。
徹底した軽量ボディの開発と、大人4人が乗ることを前提に計算し尽くした合理的なパッケージングに努めました。
それらには航空機メーカーとしてのノウハウが大いに活かされており、幅広い世代から絶大な支持と信頼を集めることとなり、日本の自動車普及に貢献することとなりました。

1966年にスバル・1000を発売した富士重工業は、更なる成功を収めることとなります。
これには縦置き水平対向エンジンを使用した前輪駆動を採用しており、現在のスバル車においてもこのエンジン構造が全て踏襲されており、発売当初の先進性が伺えます。
また自在継手に、現NTNと共同開発したダブル・オフセット・ジョイントを使用しており、これもスバル・1000成功の要因の一つとなっています。
1970年代から世界的にも前輪駆動小型車が主流となりましたが、スバル・1000はそれらの先駆けとなったといえるでしょう。

その後富士重工業は乗用4WD車、「レオーネ4WDエステートバン1400」を1972年に発売しました。
日本ではまだ4WDといえば走破性を誇るアメリカ・ジープ社の自動車のイメージが強く、本格的な量産ラインが確立されていなかった時代での導入で、
世界初の量産型4輪駆動自動車として注目を集めることとなります。
一般的なセダン車やワゴン車のような外観をしているレオーネですが、その走行性・走破性の良さは、圧倒的でした。
砂利道や雪道などといった悪路走行をものともせず、力強さと安定性で、ユーザーから高い評価を得ることとなりました。
レオーネのヒットを皮切りに、現在でもスバル車を代表する車種・レガシイやインプレッサなどが後続で発売され、スバルの4WDの力強い走りを、日本全国のみならず
全世界へと発進していくこととなるのです。

■近年における動向

水平対向エンジンやレオーネで実証された4WDの力強さを取り入れた新モデル「レガシィ」が1989年に製造・販売されることとなります。
後にツーリングワゴンやスポーツセダン、ステーションワゴン型SUVなど、様々なモデルが販売されることとなる、現在でも続くロングセラーモデルです。
レガシィの人気に火を付けたのは、1989年にアメリカのアリゾナ州フェニックスで行われた10万キロ耐久走行の平均速度・223.345km/Lが国際記録を樹立したことにはじまります。
その高い走行性と耐久性が世界に認められ、瞬く間にレガシィの名が世界に知れ渡ることとなったのです。
また、既にこの頃には富士重工業はステレオカメラを使った運転支援システムの開発を開始し始めたとされています。
そしてさらに富士重工業の名を不動のものとしたのが1990年から本格参戦したWRC(世界ラリー選手権)です。
インプレッサWRでマニュファクチュアラーズチャンピオンを3年連続で受賞し、ドライバーズチャンピオンも3回獲得しています。
モータースポーツで得られたその知識を活かし、市販車にも技術を惜しみなく搭載して進化をし続けています。
2003-2004年にはレガシィが日本カーオブザイヤーを受賞し、その人気の高さを知らしめました。
必要に応じてブレーキ制御などを自動で行うスバルの先進安全技術・アイサイトの前身となる「ADA」では、
レーザーレーダーとカメラを使用したセンサーフュージョン技術を採用しており、これは富士重工業が世界に先駆けて使用したとされています。
そして後に先進技術アイサイトが発売され、2014年にはver.3にまで進化を遂げています。
現在ではステアリングアシストに磨きをかけ、オートクルーズ機能や誤発進抑制機能、斜線逸脱警報機能、オートハイビーム機能など、その性能をさらに向上させています。
2017年には社名を富士重工業から、既にブランド名として広く浸透していたスバルを起用し、「株式会社SUBARU」へと変更しています。

■モータースポーツへの取り組み

富士重工業時代、1972年のサザンクロスラリーにレオーネを投入したのがスバルのモーターレース初参戦とされています。
次世代モータースポーツの重要性を説き、後に取り組まれたのがレガシィのFIA公認10万キロ世界速度への挑戦です。
見事レガシィは国際記録を樹立し、その名を世界に轟かせることとなります。そして平均速度223.345km/Lの記録は、その後16年間破られることはありませんでした。
90年代から本格的にWRCへ参戦をしたスバルは、レガシィで93年に初優勝を果たすこととなります。
レガシィに次いで「WRCで勝てる車」として開発が進められたのが今現在も不動の人気を誇るインプレッサです。
欧州の強豪車との戦いに見事勝ち抜き、3年連続WRCマニュファクチャラーズチャンピオンに輝きます。
これまでのスバルのWRC47勝のうち、46勝はインプレッサによるもので、まさにその性能の高さ・信頼性は他の追随を許しません。
そしてレースで培った新技術を市販車に導入し、プレミアムスポーツセダンという新しいジャンルを確立するなど、スバルの革新には目を見張るものがあります。
2008年でWRCへの参加を終了したスバルですが、現在、再び耐久レースで世界一を目指す取り組みが始動しています。
それはドイツで毎年開催される、ニュルブルクリンク24時間耐久レースです。
世界で最も過酷なツーリングカーの祭典とされており、一周25.378kmの荒れた道のりを走行し、世界屈指の強豪メーカーが頂点を競い合う大会です。
2011年と2012年、2015年と2016年にそれぞれ連覇を達成しており、またしてもスバル車が世界を驚愕させました。
ドライバーやメカニック達は厳しいプレッシャーの中、チームで連携して強力し合い、このもっとも過酷といわれるレースに毎年挑み続けています。
そしてそこで得られた知識や経験を、整備や点検に活かし、サービス全体の向上に役立てているのです。

■まとめ

航空機メーカーから自動車メーカーへ、一見華麗なる転身を遂げたスバルの道のりは、そう容易いものではありませんでした。
しかし経営者や開発者たちの惜しみない努力と、航空機メーカーから根付いている確かな技術力が、これまでの歴史を形作り、自動車メーカーとしての信頼を勝ち得ることとなったのです。
中島飛行機を前身とし、スバルとなって舞台が地上に変わってからも、変わらないのは安全への取り組みです。先進安全技術・アイサイトをはじめとする、
多彩な安全技術は今後も妥協することなく進化をし続けていきます。
モータースポーツにおいてもその力を世界へと発信し続けるスバルの新たな挑戦に、今後も世界中が期待し注目していくことでしょう。