トヨタ車の歴史と歩み

トヨタ車の歴史と歩み

トヨタ車の歴史と歩み

トヨタ 旧車

日本を代表する、世界シェアトップクラスの自動車メーカートヨタ自動車。
コンサルティング会社のインターブランドジャパンによると、世界展開している日本企業のブランド価値ランキングでは2018年現在1位を記録し、
09年のランク付け以来10年連続1位を記録しています。
そんなマンモス企業とも言えるトヨタ自動車ですが、その歴史を辿ると大正時代にまで遡ります。
今記事では日本の自動車産業の火付け役ともなったトヨタ自動車の歴史を探っていきたいと思います。

■父の発明・子の関心

トヨタグループの創業者は豊田喜一郎氏と知られていますが、
その発明と考えは父親である豊田佐吉氏から受け継がれたとされています。

佐吉氏は紡績機械や動力織機などの繊維機械を考案した発明家についての記述『西国立志編(1870年発刊)』に強い関心を抱き、織機の発明を志すこととなりました。
バッタン付き高機の改良の考案に専念し、1891年に特許第1195号「織機」の特許証が授与されました。
しかし元々佐吉氏が目指していたのは、動力で作動する動力織機であり、人力織機ではありませんでした。
1898年に、日本初の動力織機である豊田式汽力織機を発明し、発明後に設立された織機メーカーが
現在スズキ株式会社である鈴木式織機製作所、現在エンシュウ株式会社の鈴政式織機株式会社となっています。

後に豊田式の織機は海外でも高く評価されることとなり、英国の紡織機メーカーであるプラット社と自動織機の特許権譲渡のため、息子の喜一郎が英国に渡航することとなりました。
渡英の際に米国経由で英国に向かった喜一郎氏は、特許の売り込みを随行者に任せて、自身は元々興味のあった自動車工業や自動車製造用の工作機械の調査に専念したとされています。

かねてから自動車製造業に関心が高かった喜一郎氏は、渡航により産業構造の変化を実感し自動車産業の必要性を改めて認識しました。

■関東大震災後の日本と米国車の関係

1923年(大正12年)9月1日に、関東大震災が起きました。
この出来事は実は、日本の自動車産業の発展と切っても切れない関係性にあるのです。
震災の後、壊滅的な被害を受けた鉄道に代わり、輸送手段として活躍したのが自動車でした。
また、火災から多くの人命救助を行い、復興事業にも自動車が貢献することとなりました。
それは、それまで贅沢品としか見られていなかった自動車に、実用品としてのスポットライトが当たった瞬間でもありました。
その公共性・利便性が世間に広く知れ渡るきっかけとなったのです。
東京市電気局は、米国フォード車からトラック・シャシーを800台発注し、市バスとして運行を開始することとなりました。

後に自動車国産化の気運が高まるとともに、名古屋市では「中京デトロイト化構想」とも呼ばれる、
中京地区に発達している機械工業を活用し、自動車工業を確立しようとする運動が提唱されることとなります。
これは将来自動車工業への進出を検討していた喜一郎氏の発想と共通していたとされています。

中京デトロイト化構想では名古屋市内の機械関係各社が参加し、米国乗用車「ナッシュ」をモデルに、1930年の夏に乗用車の試作車を開発しました。
豊田式織機は鋳物部品を担当し、1932年には二台目の試作車が完成する運びとなりました。
「アツタ号」と名付けられたこの車は、米国の大量生産車との差別化を図るために高級ラインに近しいものとして開発されましたが、
結局は採算が取れずに、構想自体が中止することとなりました。

■自動車製作部門の設立

喜一郎氏は1933年(昭和3年)9月1日に、豊田自動織機製作所に自動車製作部門を設置しました。
それに先立ち、同年6月に取締役の大島理三郎氏を欧米へ派遣し、視察と自動車製造用工作機械を購入を行っています。
喜一郎氏の方針としては、当時日本で広く普及していたフォード車やシボレー車と互換性のある部品として設計する考えを持っており、
エンジンはシボレー車、丈夫な構造のフォード車をトラック・シャシーのモデルとしました。
設立当初は、33年型シボレー乗用車を解体して内蔵部品をスケッチしエンジン試作用の図面を作ったり、部品の材質や強度、硬度などを調査するところから始めました。
徐々に自動車事業の経験者を採用することで事業は大きく拡大していくこととなります。

■自動車生産能力の拡大へ

喜一郎氏は自動織機同様、自動車の製造においても段階的に生産能力の拡大を図りました。
試作工場の建設しA1型乗用車やG1型トラックを試作し、その後自動車組み立て工場を建設し、本格的な自動車量産工場の建設に取り組んだのです。
そして1936年(昭和11年)9月には、「自動車製造事業法」の許可会社に指定され、自動車量産の義務を負うこととなります。
それに伴い、自動車製造部門は豊田自動織機製作所から分離独立することとなり、資本金1,200万円の新会社「トヨタ自動車工業」を設立することになったのです。
喜一郎氏は当時「ジャスト・イン・タイム」生産を提唱しており、
要約して言うと、「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」ということです。
これが、「自動化」と併せて現在のトヨタ自動車の生産方式構成する二本柱ともなっています。

■戦時下における自動車業界

発足した1937年以降、戦時下における物資不足が深刻な問題となっていました。
生産拡充は難しくなり、本格的な経済統制が始まりました。1938年には「国家総動員法」が発令され、
経済活動や国民生活の全域にわたり統制されることとなりました。自動車生産については、乗用車が大幅な制限を受け、
1939年1月にはすべての民需用乗用車の生産が禁止されることとなりました。
物資は配給制となり、自動車は「機械工業組合連合会」から配給される材料を調達し生産されるようになりました。
ただし自動車のように広域な原材料を必要とする総合工業では、原材料の入手自体が困難となるところも生じました。
民需用のトヨタ・トラックのシャシーの販売価格を見てみると、
発売開始となった1937年から戦争終結前の1945年5月と比較すると、ディーラー店頭価格は3,530円から12,500円にまで高騰しています。
ちなみに、1944年1月にトヨタ自動車工業は軍需会社に指定されており、喜一郎氏は「軍需会社法施行令」に定められた会社を代表する生産責任者に就任しています。

■戦後の爪あとと再出発
トヨタ自動車工業の挙母工場への被害も大きく、工場の約4分の一が空襲によって破壊されました。
当時の赤井久義副社長は幹部に対してこう語ったと言われています。
「トラックはこれから二本を復興する際にも重要な道具である。トヨタはそれをつくって供給する責任がある。そのつもりで再出発しよう。」
その言葉を糧にし、トヨタは再出発に向けて動き出すこととなりました。
しかし9,500人余りに増えていた従業員数でしたが、戦争によって去った人々、自発的に退社するものが多く、1945年10月には3,700人にまで減少していました。
規制が強かった自動車製造業ですが、1945年9月、GHQ(連合国軍総司令部)が「製造工業操業に関する覚書」を発令したことにより、トラックのみ製造が認められることとなりました。
占領政策の1つとして、米軍車両の修理を行い、一年ほど作業を行っています。
乗用車の生産こそ禁止されていましたが、研究自体は自由に行うことが出来たため、トヨタ自工は戦争が終結した1945年の10月頃から小型車用の
エンジン設計を開始し、翌年には出図を完了しています。ちなみにこのエンジンは1947年に発売したSB型トラックに搭載されています。

■経営危機と喜一郎氏の辞任

1949年10月、自由販売化への移行によって、自動車市場は売り手市場から買い手市場に変貌を遂げました。
統制化の自動車販売に慣れていた自動車業界は大混乱状態となり、月賦手形による分割払いが増加することとなりました。
不渡り手形が大量に発生することとなり、その負担はトヨタ自工が負うはめになりました。
そして代金回収の停滞と原価の増大も相まって、深刻な経営危機を招くことになったのです。
1950年4月には販売会社を独立させ、トヨタ自動車販売(トヨタ自販)が設立されたが、時点は好転せず悪化の一途を辿りました。
経営合理化策を強力に推進していたトヨタ自工でしたが、、1949年11月16日~1950年3月31日の4カ月半の決算は7,652万円もの損失が見受けられました。
1950年4月、会社側は労働組合に会社再建案を提し、その中には人員整理策も組み込まれていました。
人員整理、残留者の賃金引下げ、人事の刷新を会社再建案に掲げ、その責めを負う形で、創業者・喜一郎氏は辞任することとなりました。

■販売体制の拡充・世界に向けて

1949年に乗用車の生産制限が解除されたことを受けて、トヨタ自工では早速SD型乗用車シャシーの製造を開始しました。
また、1955年には本格的な乗用車としてトヨペット・クラウン、トヨペット・マスターを発売しています。
1950年から1955年にかけて、販売台数は548台から7,055台へと拡大し、国内ではますます高い需要が見受けられました。
乗用車市場の拡大を受けて、1953年には東京トヨペット株式会社が設立されることとなりました。
国内だけでなく海外にも目を向け、アジア進出を皮切りに、中南米諸国、米国への進出へと進んでいくことになります。
米国トヨタを設立し、始めこそ苦境に立たされたものの、米国でのセカンド・カー需要に乗り「RT43L型コロナ」が好評を博したこと、
基盤を固めた後に販売したカローラが爆発的なヒットになるなどして、1966年以降、米国は最大の輸出先国となったのです。
こうした米国でのヒットもあり、1960年代後半には、日本車は積極的に海外市場に輸出されるようになり、世界のトヨタへと羽ばたいていくこととなったのです。

■まとめ
いまや世界的大企業であるトヨタ自動車の歴史は、戦前から現在にまで続いており、まさに日本の歴史ともいえます。
自動車製造が容易ではなかった時代を切り抜けた底力と、確かな経営力を持つトヨタ自動車は今後も更なる進化を遂げ、私たちを牽引してくれることでしょう。

 

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