音速の貴公子・アイルトン・セナ

音速の貴公子・アイルトン・セナ

 

音速の貴公子と呼ばれた、かつてのF1名ドライバーであるアイルトン・セナを知っていますか。94年に行われたサンマリノGPでの痛ましい事故によって、34歳という若さでこの世を去った彼は、亡くなってから20年以上経った今でもなお、多くのファンや関係者達から“史上最高のドライバー”と称えられています。日本を代表する自動車メーカーであるホンダとの関係も良好で、共感を覚えた日本人ファンも多いことでしょう。

情に厚く生真面目な正確を持つ彼は、時にライバル達と衝突することもありましたが、全力でレースに取り組む姿勢を誰もが賞賛しました。史上最高と言われた貴公子の死は、F1史にとって大きな損害であり、また、ファンやライバル達の心に大きな喪失感をもたらしました。

今回は伝説となったドライバー、アイルトン・セナに焦点を当て、彼の半生について言及していきたいと思います。

音速の貴公子・アイルトン・セナ

生い立ち~F1以前

セナはブラジル最大の都市であるサンパウロ市で誕生し、ブラジル国内でも有数の経営者・ミルトン・ダ・シルバを父親に持っていました。彼の運命を変えることとなったのは4歳の誕生日に父親からプレゼントされたレーシングカートです。たちまちそれに夢中になったセナは、家庭の資金力と環境もあり、めきめきと才能を開花させていくこととなります。あまりにのめり込んでしまった彼に、父親は学業優先を言い渡すほどでした。

そして13歳になった頃からカートレースに出場をし初め、17歳には南アメリカのカート選手権を制覇するほどにまで成長していました。その若い才能と実力が認められ、翌年にはイタリアのカートメーカーであるDAP(ダップ)がスポンサーに付き、CIK/FIAヨーロッパ選手権に出場することとなりました。優勝は逃したものの、初出場で見事2位で表彰台に立っています。

当事日本で最高峰とされていたジャパンカートグランプリにも参戦し、個人で4位入賞・団体戦では5位入賞を果たすなど、カートレースのキャリアを着実に築き上げていきました。イギリスの名門レーシングスクール・ジム・ラッセル・レーシングスクールを受講し、フォーミュラ・フォード1600で優勝を果たしましたが、前年には幼馴染・リリアンと結婚しており、父親との取り決めもあったことから、名残惜しくも1981年に引退をしてブラジルに帰国しました。

しかしレースへの情熱を忘れることが出来なかったセナは、ブラジルでの生活が捨てられなかった妻・リリアンと離婚をし、単身で再度イギリスに渡り、レーサーとしての道を歩む決意をしました。当事セナがまだ22歳のことでした。

F1時代突入!

トールマン

イギリスのF3で頭角を現したセナは、1984年にトールマンからF1デビューを果たすこととなりました。

初戦となるブラジルGPではエンジントラブルなどによって棄権するという悔しい結果に終わりましたが、その後参戦した第2戦アフリカGPでは6位入賞を飾っています。第3戦目は7位でゴールしましたが、ティレル勢が登録抹消となったため繰り上がりで6位入賞となっています。また、第6戦モナコGPでは予選の13位から追い上げを見せ、決勝では2位という輝かしい記録と、自身初となるファステストラップ(そのレースで一番早いラップタイム)を記録しました。そして第10戦のイギリスGPと最終戦のポルトガルGPで3位入賞を果たし、15戦中5つのレースで入賞を飾るなど、若さゆえの荒々しさはあったもののその名を轟かせるには十分な結果を残したといえます。

ランキングではロータスに所属しているナイジェル・マンセルと並んで9位となりました。

ロータス

トールマンと3年契約を結んでいたにも関わらず、シーズンを残してロータスへの移籍を発表したセナ。しかしこれが2重契約として物議を醸しました。最終的にはロータスとセナ自身がトールマンに違約金を支払い、1レース出場禁止の処分を受けることを条件にロータスへの移籍が実現しています。

第2戦ポルトガルGPでは自身初となるポールポジションを獲得し、見事F1で初優勝を飾ることとなりました。シーズン前半の入賞は上記レースのみとなり、安定感に欠ける結果となっているますが、シーズン後半では安定したポイントを獲得し、第13戦目で再度優勝を果たすなどし、それらを受けてセナはチームのエースであるエリオ・デ・アンジェリスを上回るランキング4位となりました。

アンジェリスがブラハムへと移籍し、セナは1986年にチームのエース・ドライバーとなりました。エースとなってからの成績はシーズン前半が8戦中入賞6回と好調でしたが、後半はエンジントラブルなどに見舞われてリタイアが続き、最終的なランキングは4位に止まりました。

このシーズンでウィリアムズ・ホンダ勢と死闘を繰り広げ、その強さを身を持って体感したセナは、ホンダエンジンへの羨望を抱き始めていきました。翌年の1987年には念願であったホンダエンジンを獲得し、それに伴ってホンダと縁が深い日本人レーサー・中嶋悟をチームメイトとして迎え入れることとなりました。

2度の優勝と16戦中入賞11回という堅実なレース結果によって、セナはランキングを3位にまで上昇させ、鈴鹿サーキットで開催された日本GPではホンダエンジンの母国に初表彰台をもたらしました。

マクラーレン

セナのF1史上で一番在籍期間が長かったのがマクラーレン時代です。2度のタイトル保持者である・アラン・プロストとチームメイトとなり、セナの移籍とともにマクラーレンにもホンダエンジンが採用されることとなりました。セナ・プロスト・ホンダの組み合わせもあってか、マクラーレンはシーズン開幕から好調な滑り出しを見せました。

チームメイトでありながらもライバルであった2人のポイントは分散され、ドライバーズタイトル争いはシーズン終盤にまでもつれ込みました。2台のマクラーレンによる独走的なレース展開となり、他を圧倒するシーズンとなりました。結果有効ポイント制もあり、セナが初のタイトルを獲得するも、ポルトガルGPでのセナのプロストに対する幅寄せ行為などにより、2人の間には溝が生まれ始めたとされています。

翌シーズンでは初の1ナンバーを付けて参戦したセナは、それまでジム・クラークが保持していた最多PP記録を21年ぶりに塗り替えています。プロストとの関係はというと、更なるチームメイト同士の接触という後味の悪いレース展開もあり、溝は埋まるばかりか広がっていきました。そしてこの頃、FIAの会長であるジャン=マリー・バレストから「危険なドライバー」と見なされたセナは、引退の危機に追い込まれることとなりました。引退騒動はセナの謝罪によって取り消しとなっていますが、当事を振り返ってセナは「もう走らないつもりだった」と語っていたといいます。

1991年に3度目のタイトルを獲得した頃からウィリアムズへ移籍する考えを抱き始めたセナでしたが、懇意にしているホンダ側からの説得もあり、1993年までマクラーレンに在籍することになります。当事を振り返ってセナは、「あの時移籍すべきだったのにそうしなかった、あれは僕のミスだ」と明かしているといいます。

ウィリアムズ

長年臨んでいたウィリアムズ・ルノーへの移籍は1994年にようやく実現しました。

ルール改変によりウィリアムズの武器でもあったアクティブサスペンションやトラクションコントロールなどの技術が禁止となったことで、新車の完成まで時間を有することとなりました。空力的に神経質な部分を補っていたアクティブサスペンションの廃止はウィリアムズにとって大打撃であったといえるでしょう。痛ましい事故となってしまった第3戦サンマリノGP直前にセナは、「マシンは空力的にドライブが困難だ、パフォーマンスは最悪で、まだ乗りこなせていないんだ」と、マクラーレン時代のチームメイトであるゲルハルトベルガー・に語っていたといいます。

痛ましい事故・サンマリノGP

グランプリレース史上、最も悲しいレースとされるのが1994年に行われた第3戦サンマリノGPです。出身のローランド・ラッツエンバーガーが予選で事故死をし、多くのドライバー達の心に動揺が広がったといいます。まさかその翌日に、3度のチャンピオンを獲得したセナも続いて事故死をする未来など、誰が想像したでしょうか。

決勝レースがスタートした直後に衝突事故が起き、その破片が観客席に飛び込む事態となり一時は会場が騒然としました。それに伴ってセーフティカーが5周に渡って全競技車を先導するなど波乱のレースの幕開けとなりました。6週目に入る前にセーフティカーが退場することを無線で知ったセナは、いっきにペースを上げて後続車両の引き離しにかかりました。後を追っていたのは、後にセナの偉大な記録を塗り替えることとなったミハエル・シューマッハです。

そして悲劇が起こったのは7週目のことです。高速のタンブレロ・コーナーに差し掛かったセナの車は走行ラインから大幅に外れ、直線的にコースアウトをし、緩衝材のないコンクリートに衝突しました。コース離脱時は310km/h、衝突の直前でも218km/hもの速度でコンクリートバリアに突っ込んだセナの車体は右ッフロントホイールとノーズコーンを弾き飛ばし、スピンしながら停止したといいます。

医療班が到着した時には脳に大きな損傷が確認されており、死亡原因は定かではありませんが彼は既に死亡していたものと推測されています。彼の死は多くのライバル達の心に傷を残し、祖国であるブラジル人ファンにとっては国家的な悲劇ともされました。偉大なドライバーの死として日本でも大きく取り上げられ、懇意にしていたホンダは、ロータス時代のセナの車体を展示し、喪に服したといいます。

二度の死亡事故と二度の衝突事故が引き起こったサンマリノGPを受けて、安全性の向上に対する対策が取られることとなりました。引退した元ワールドチャンピオンのニキ・ラウタや現役のドライバーであるミハエル・シューマッハ、ゲルハルト・ベルガー、クリスチャン・フィッティパルディなどが代表となり、フォーミュラ1(F1)に対して安全性の改善を要求し、以降マシンやサーキット場の規定に変更が加えられることとなりました。

まとめ

F1史上最高のドライバーと謳われたセナのドライビングは、今もなお人々の心に深く刻み込まれています。そして彼の死は関係者だけでなく、切磋琢磨をするライバル達や世界中に居るファン達の心にも大きな喪失感を与えたことでしょう。

F1にその身を捧げた一人のドライバーの生き様が後世に語り継がれていくことを願うばかりです。